1991年12月
静岡県下田市でOPEN

1994年12月
静岡県伊東市にSNOW BOARDのプロショップとして支店をOPEN

1995年10月
伊東店を現在の海沿いに移転

1999年2月
レストランバー、VENICE CLUBをOPEN

2000年6月
レストランバーを閉鎖して新たにKID'S STOREとして
VENICE CLUBをリニューアル

2000年10月
下田店を閉鎖

2000年12月
静岡県沼津市に沼津店をOPEN

2001年6月
ホームページ開設


2005年11月
KIDS STOREを閉鎖して、また懲りずにBARをOPEN

2006年3月
BARを一人で運営することに限界を感じ閉鎖

2006年4月
KIDS STOREを再開(予定)



もう我ながら動きすぎっ!と突っ込みの一つも入れたくなります。。。


1990年10月



最初のきっかけはLAに住む中学時代の友人がまた別の友人に

「アサクラ、アメリカにきて一緒にタクシー会社やんないかな?」

と、電話で言ってたと、渋谷に向かう東横線の中で聞かされて

何ネボケたこと言ってんだヨ

オレにだって生活ってもんがあんだよ・・・・でも

面白そうじゃん

 

やってみてぇ

 

やろうかな

 

行く!

桜木町から渋谷に着くわずか30分の間に決めました。

 



それまで6年間勤めたカジュアルショップで最後に、白浜の海の家(ロードサイドだけどネ)を

それなりに成功させてから、10月に退社して、有り金全部米ドルに替えて渡米しました。

飛行機に乗るのも初めて、当然海外も初めてで結構緊張しまくりでした。

だって

英語しゃべれねぇもん

どれくらいしゃべれねぇかと言うと

HOW MANYの意味が分からねぇくらい

ハンバーガーショップに行って、

俺「ちーずばーがーぷりーず」

店員「はう めにぃ?」

俺「やぁ」←元気良く

店員「・・・・・・・・・・・」

友人「いくつ?って聞いてるの!」

俺「あ、あ、わん」

・・・・・・・・・・・・

実話です。(恥)

 

 

チャレンジャーでしょ?

もし空港についても迎えがいなかったら・・・

もし私が日にちを間違えていたら・・・

もしその友人が途中で事故でも起こして来るにこれない状況だったら・・・

食事もできなけりゃ、コーラ一つ買えない。

シビレますよね?

眠れないっつーの、飛行機の中で。

 

まっ、今考えればその飛行機だけでもかなりの日本人が乗ってるわけで

救いを求めれば、なんとかなるだろうし

英語がしゃべれないくらいで、命まで取られるわけじゃないから

どうにかなりますけど。

 

とにかく、一睡も出来ないで到着しました。

迎えも問題なくいました。

 

 

 

 

アメリカに着いて思ったことは、あまりにも陳腐かもしれないけど

でっけぇ

なんもかんも、でっけぇ

でした。

私も身長178cmありますから、それほど小さくはないのですが

毛唐はでけぇです。

道路も家も・・・・・すごいカルチャーショックでした。

日本車が多いのにも驚きましたけどね。

 

最初の2週間くらいの間に、レンタカーを借りて(マンスリーで)免許取って

地球の歩き方(西海岸)と地図を片手に、走りまくりました。道を憶えるために。

ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、ナッツベリーファーム、チャイニーズシアター

サンタモニカビーチ、マリナ・デル・レイ、グリフィス天文台・・・・

 

そこそこLAに慣れてきた頃から仕事を始めました。

タクシー会社といっても、日本の旅行代理店から仕事をもらって

観光客を市内観光や、ディズニーランドに連れってったり

いわゆるツアーガイドです。

 

英語も全然上達しないまま、日々ガイドの仕事に明け暮れていたころでした。

湾岸戦争が始まりました。

当然仕事は激減。

なにしろ、日本国政府が海外旅行の自粛を国民に求めましたから。

特にアメリカ旅行を。

まさに国家権力による営業妨害。

しょうがないですけどネ、だって戦時中なんですもの

アメリカは。

 

そのころはちょうど冬だったので、スキーに行ったり、冬なのに海に行ったり、遊び狂ってましたけど

そのうち私も馬鹿じゃないから、気づきました。

このままじゃダメ人間。

そう、ぷーたろうです。

とりあえず英語の勉強しました。教科書を買ってきて中学1年から。

いい環境にいましたから、先生には事欠きませんでした。

英語に関してはスゴイ、コンプレックスを持っていて

遊び狂ってる頃、しょっちゅうホームパーティとか行ってて、外人のおねぇちゃんとかと話するにも

言葉が話せないから

ボディランゲージ。

それがかえって良かったのか、何人かと仲良くなり

英語の勉強を助けてもらいました。

あれですよ、中学1年の最初(1学期くらい)の英語が出来ると出来ないでは大違いですよ。

それだけでも何とかコミュニケーションはとれますから。体ではなく口で。

そうなったら後は早いです。

ある日、インドネシア人の女の子のお兄さんが遊びでLAに来て、

私が1日その女の子とお兄さんを観光に連れて回ったんですけど、その日はまるまる英語だけ。

相手も、そんなにペラペラじゃないけど英語しか共通の言葉がないから。

たった1日ですが、驚くほど上達しました。どれくらいかというと

2学期をぶっ飛ばして3学期に突入するくらい

中1だけど。

そして悟りました英語は気合いだと。

 

さぁ、ちょっとしゃべれるようになりました。中1レベルの気合いだけどな

今までは、買い物に行っても欲しい物を選んでレジに持って行くだけだったのですが、

レベルアップしました。交渉できるようになりました。

高い!と言うのが「えくすぺんしぶ」まけろ!と言うのが「でぃすかうんと ぷりーず」

もう鬼に金棒、森末に鉄棒状態です。

仕入れの第一歩を踏み出しました。

 

1991年6月〜8月

ガイドの仕事に見切りをつけて(っていうより単に仕事がなくなっちゃったんですけど)

日本でSHOPを始める決意をした私は、まず最初に白浜の海の家をと考えました。

以前に勤めていた、カジュアルショップの社長に話して、権利を買いました。

4月に日本に帰ると言ってさんざんサヨナラパーティをみんなにやってもらっときながら

6月には仕入れのためにまたLAに戻りました。

2週間くらいの滞在ですが、走り回り商材を集めまくりました。

今写真を見てもイイ品揃えをしてます。

STUSSY/BILLABONG/BANANA REPUBLIC/VANS/NIKE//////

NIKEなんて、Tシャツ、トランクスの他に

NIKEバブルの頃には一時20万円近くした

エアージョーダン5 ナンバリングモデル \19,800

(そんなもん海の家で売るな!ですか?)

何て物まで売ってましたから。

 

そこそこ稼いで、今度は本気でSHOP探しを始めて

下田の商店街にお気に入りを見つけ契約し、内装工事を業者さんに任せて渡米しました。

 

1991年12月

2週間くらいで、全ての商品に値段を付け、陳列からディスプレーまで済ませて

大事なことに気が付きました。

袋がない。

今でもそうなんですが、ショップの袋は顔だと思ってますので、適当な袋でごまかす気になれなかった。

どうしたかというと、作りました。自力で。

っていっても、袋を作ったのではなく、クラフト地の無地の紙袋を買ってきて

その紙袋に、あらかじめ型抜きしておいたVENICEのロゴをスプレーで1枚1枚入れました。開店前夜に。

何とか朝までに、100枚程度の袋を作って、大急ぎで掃除をしてなんとかOPENにこぎ着けました。

記念すべき初日です。

 

最初のお客さんの顔は今でも憶えています。

今と同じ11時OPENだったのですが、開店前に待っててくれたお客さんがいました。

嬉しかったですねぇ。ホント。

初日は、知り合い関係も沢山来てくれて、結構忙しかった。

 

たぶん時代が良かったんだと思うけど、本当によく売れました。

その頃、インポートにこだわってるSHOPが少なかったんでしょう。当時のVENICE は100%輸入物でした。

STUSSYと、ミルマスカラスや洗剤のパッケージのプリントの頃のFRESH JIVEがメインブランドだったのですが

呆れるくらい、よく売れました。

年末には店内がスカスカになってしまい、正月明けにはまた仕入れのために渡米しました。

1週間、店を休んで。。。

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